『この世界は不完全すぎる』の物語序盤に登場した、アソビングのメンバーであるスミダに、まさか色恋の話が持ち上がるとは、初期からの読者にとっては驚天動地の展開であろう。スミダといえば、まだ1巻や2巻あたりで、他のメンバーと共に「デバッガー狩り」に勤しんでいた印象が強い。特に「女体ベッドのスミダ」という、何とも形容しがたい二つ名(のようなもの)は、彼のキャラクターを象徴する強烈なフレーズとして一部読者の記憶に刻まれているかもしれない。
そんなスミダにスポットライトが当たり、彼の恋模様が語られるのが、この15巻なのである。「え、誰得?」という疑問が頭をよぎるのも無理はない。しかし、蓋を開けてみれば、これがなかなかどうして面白い。

責任感の強さゆえに精神的に疲弊してしまっている女性デバッガーを捕まえ、ロールプレイングという名の芝居がかった振る舞いで甘い言葉を囁き、告白に至る。ここまでは、まだ理解の範疇だ。しかし、その裏で女性NPCと親密な関係を持っていたことが露見し、あっけなく振られてしまうというのだから、開いた口が塞がらない。
これはもう、擁護のしようがないほどのクズっぷりではないか。しかも、その時の言い訳がまた最低らしい。「え、何ですか何ですか?」と前のめりになる読者の期待を裏切らない、衝撃的な一言が飛び出すという。さらに、「私のどこが好きなの?」という、恋人ならば誰もが一度は問いかけるであろう質問に対して、信じられないほどくだらない答えを返したというのだ。一体、彼は何と答えたのか?
今回は、『この世界は不完全すぎる』15巻における、スミダのまさかの色恋沙汰を中心に、その顛末と、そこから垣間見える登場人物たちの人間模様について深く掘り下げていく。
15巻に登場した新たな火種:イノウエという女性

15巻で新たに登場したキャラクター、イノウエ。彼女こそが、スミダの元恋人である。初登場時、彼女はスキンヘッドで、性別すら判然としないエスニックな雰囲気を纏っていたが、ハガたちに追い詰められる過程で、普通の褐色肌の女性キャラクターへと姿を変える。

イノウエは、アソビングの副社長という肩書を持つ。学生時代はソフトボール部の主将を務めたというスポ根女子であり、少々融通が利かない、あるいはストイックすぎる一面があると、アソビングの社員たちからは陰口を叩かれていたようだ。
ログアウト不能となったゲームの世界で、親睦を深めるためにソフトボール大会を企画したり、乙女ゲームを愛好し、ゲーム関連の会社に入社したりと、その行動原理は一貫している。しかし、サカイをはじめとする一部の社員たちからは、その真面目さが煙たがられていたらしい。
あのサカイたちに陰口を叩かれるとは、イノウエはむしろまともな人間なのではないか? その推測は、概ね正しいと言えるだろう。アマノ曰く、アソビングの中でまともな人間は、大抵早々に会社を去っていったという。イノウエもまた、その一人だったのだ。

彼女は、会社のメンバーに隠れてスミダと交際していた過去を持つ。しかし、スミダが女性NPCと親密にしている現場を目撃してしまい、破局を迎える。そして数年の時を経て再会した今、彼女はかつての恋人であるスミダに対し、激しい仕返しを企て、実行しているのだ。
その「いじめ」の内容は、常軌を逸していると言わざるを得ない。めちゃくちゃ強い魔物に襲わせたり、回復魔法をかけながら熱々の鉄板で火あぶりにしたり、煮え湯に突き落としたりと、その手口は陰湿かつ残酷だ。これは、当時の別れ方に対する単なる恨みというよりも、付き合っていた頃の記憶そのものを抹消したいという、より根深い感情の表れなのかもしれない。

それは、まるで中学生の頃、友人たちと遊びに行く約束をしていたのに、自分だけ待ち合わせ時間を1時間遅れて教えられていた、というような、些細ながらも深く心に刻まれる裏切りの記憶に近いのかもしれない。母親に「楽しかった?」と聞かれ、目を逸らしながら「楽しかったよ」と答える時の、あの何とも言えない感情。
それは、真面目で一途だったイノウエにとって、騙された過去の自分自身を許せないという感情に繋がっているのだろう。過去の純粋な自分を否定されたような感覚、それを消し去りたいという衝動が、彼女を苛烈な復讐へと駆り立てているのだ。
スミダとイノウエ:歪んだ恋の始まりと終わり

ゲームがログアウトできなくなってから、スミダは以前とは異なる一面を見せるようになる。元々はあまり自己主張するタイプではなかった彼が、突如として騎士のようなロールプレイングを始めるのだ。
「では明朝お迎えに上がります」と殊勝な態度で礼をしたり、「女性の背中を守る、騎士の常識ですよ」と気障な台詞を吐いたり、「何かお悩みを?お聞かせください」と手を差し伸べたり。そして、散々そのような振る舞いを見せた後、「ずっと好きでした。付き合ってください」と、意外にもストレートに告白するのである。
正直なところ、ここまでの流れは、若干の痛々しさを孕みつつも、ある種の滑稽さと真剣さが入り混じった、興味深い展開と言える。ロールプレイングという奇妙な前置きはあるものの、女性を大切に扱おうとする姿勢は垣間見える。
もちろん、イノウエが純粋で騙されやすいタイプだったという側面もあるだろう。しかし、ログアウトできないという異常な状況下で精神的に疲弊していた彼女にとって、そのような優しい言葉や態度は、藁にも縋る思いで受け入れたくなるものだったのかもしれない。狂った世界では、心の拠り所となる存在が何よりも重要だからだ。アマノにとっての漫画、ハガにとってのデバッグ作業のように。

元々乙女ゲーム好きだったというイノウエの嗜好も、この恋の始まりに影響を与えた可能性は高い。しかし、この状況を聞いたアマノの反応は酷い。「それでOKしたんスか?どうかしてたんスか?」と、率直すぎる疑問を投げかける。アマノからすれば、スミダはただの「女体ベッドおじさん」という認識なのだろう。その反応も、ある意味当然と言える。
そして、それに対するイノウエの反応。「魔が差したんだよ!」「乙女ゲー的な、ゲーム的なゴッコ遊びだよ!」と、必死に弁解する様子は、まさに照れ隠しそのものだ。彼女自身、当時の感情を振り返って「ママゴト」と表現しているが、そう言ってしまうこと自体が、当時の彼女が本気でスミダに惹かれていた証拠だろう。
しかし、1ヶ月の遠征から戻ってみると、アソビングの状況は悪化の一途を辿っていた。サカイたちは暴走し、社長はそれを見て見ぬふりを決め込み、まともなメンバーは次々と会社を去っていく。そんな精神的に追い詰められ、眠れない夜に、イノウエはスミダの部屋を訪れてしまう。そしてそこで目にしたのは、まさかスミダが女性NPCと性的な行為に及んでいるという、衝撃的な光景だった。

それは、真面目で純粋だったイノウエにとって、想像を絶する裏切りだっただろう。サカイに強要されたという側面もあったようだが、それを拒否せずに一緒になって行為に及んだスミダに対し、疲弊しきったイノウエが「はあ?」と呆れ返るのも無理はない。しかも、その言い訳が「仕様のチェック」という、信じられないほど的外れなものだったのだから、怒りを通り越して虚しさすら覚えただろう。
肩を落として去っていくイノウエと、イノウエを追いかけようとするも欲望に抗いきれないスミダの対比は、あまりにも残酷だ。
「なんで浮気したの?」「仕様のチェックです」「なんで借りたお金返さないの?」「仕様のチェックです」「なんで事故って運ばれた病院で暴れたの?」「仕様のチェックです」――もはや、どんな問いに対しても「仕様のチェックです」で返せるのではないかという錯覚すら覚える。しかし、それは決して許される言い訳ではない。
結局、イノウエはアソビングを離脱することを決意する。それを知ったスミダは、「最後にどうしても一度ハナシを……」と彼女を追いかける。そして、拗ねたイノウエが問いかける。「私のどこが良かったワケ?」と。

その時のスミダの回答が、まさに彼の本質を露わにする。「イノウエさんは生身だから…」「NPCじゃないから…」「NPCは好きにできるから面白くないじゃないですか」――この言葉には、彼の歪んだ女性観と、他者への尊厳の欠如が凝縮されている。それは、NPCであれば何をしても構わないという傲慢な思想であり、イノウエという一人の人間を、単なる「生身の女性」としてしか見ていないことの証左でもある。
女性NPCと散々遊んだ上でのこの感想は、聞く者を不快にさせる以外の何物でもない。まるで、「お人形と散々遊んだ後で、やっぱり本物の人間の方が良いですね」と言っているようなものだ。気持ち悪い、の一言に尽きる。

イノウエもまた、このスミダの言葉に同じ感想を抱いたことだろう。当然だ。しかし、だからといって、スミダを火あぶりにしたり、煮え湯に突き落としたりする行為が正当化されるわけではない。それは、彼女がそれだけ本気でスミダに惹かれており、深く傷つけられたことの裏返しなのだろう。
もし、彼女に愚痴をこぼせるような女友達がいたならば、また違った結末を迎えていたかもしれない。しかし、彼女は長い間孤独だったらしく、過去の裏切りの記憶を何度も思い出し、羞恥と怒りに悶えていたのではないだろうか。彼女の復讐は、スミダに対する恨みだけでなく、過去の自分自身に対する怒り、そしてやり場のない孤独感の表れなのかもしれない。
アソビングの社長とサカイ:狂った世界の縮図

今回の物語では、アソビングの社長の苦悩も垣間見えた。初登場時は、サカイたちと一緒になってNPCを虐げるクズのリーダーという印象だったが、イノウエの回想に登場する社長は、常に悩み、精神的にギリギリの状態だったようだ。現実に戻りたいのに戻れない辛さ、そしてサカイたちの暴挙を抑えられない葛藤。
サカイたちの暴走を抑えられないほど悩んでいたのか? イノウエが、サカイたちの暴走を許可した社長に倫理観を問う場面がある。その時の社長の表情には、事態を理解していてもどうにもならない、諦めのような感情が滲み出ているように見える。
会社のプロジェクトチームにも、似たような状況は起こりうるだろう。明らかに間違っていることを言っている人間が、声の大きさや厄介な絡み方によって、ある程度好きにさせないとチームが回らない、という状況。そのような時、リーダーは、その説得や周囲との調整にリソースを割く余裕がない場合、それが間違っていると分かっていても、暴走を見過ごしたり、逆に迎合したりしてしまうことがある。

社長という立場でありながら、そのような弱さを見せるのか? あるだろう。調整を誤れば、あっという間に孤立し、チームをまとめるどころではなくなる。アソビングは一見、みんな社長の機嫌を伺っているように見えたが、実際には、社長すらもサカイを中心とする集団の暴力によって脅され、コントロールされていたのだ。
そう考えると、スミダがサカイに逆らえず、嫌々ながら女体ベッドに加担したことも、もちろん許される行為ではないし、イノウエのことを思えば最低の行為だが、彼だけを一方的に責めるのは酷かもしれない。気の弱い人間が不良に肩を組まれ、「お前もやるよな?」と悪いことに誘われる状況は、決して珍しいものではないからだ。
閉鎖された社会の中で、自分の身を守ろうとすることは、決して責められないだろう。それに、サカイたちは自分たちの意に逆らってチームを抜けたイノウエを粛清しようとしていた。以前、アソビングを抜けたコバヤシとカワカミが、サカイたちによって悲惨な目に遭わされたことを考えれば、なおさらだ。

しかし、いじめられっ子と違って、社長は社長ではないか。そこはもっとリーダーシップを発揮し、立場を利用して事態を打開してほしかった、という意見ももっともだ。ただ、アソビングの社長然り、サイ公国のレン然り、プロジェクトレンズのユウ然り、この物語に登場するリーダーたちは、このゲームに閉じ込められてから皆一様に狂ってしまっている。ジンに至っては、ゲームに閉じ込められたことで狂ったのか、元から狂っていたのかすら判然としない。
リーダーという立場には、リーダーなりの苦悩があるのだろう。そして、この不完全な世界は、その苦悩を増幅させ、彼らを狂気の淵へと突き落としていくのかもしれない。
まとめ:不完全な世界に生きる人々の哀しみ

『この世界は不完全すぎる』15巻は、スミダのまさかの色恋沙汰を中心に、登場人物たちの哀しい人間模様を描き出した。ゲームに閉じ込められ、それぞれの方法で理性を保とうとするハガを中心とした物語は、一見すると滑稽で奇妙な出来事の連続のように見える。しかし、その裏には、この不条理な世界で生きる人々の孤独、絶望、そして僅かな希望が複雑に絡み合っている。
ハガでさえ、仕事に没頭することで辛うじて理性を保っているような危うさがある。どこまでも人を追い詰めていくこの不完全な世界は、登場人物たちの心を蝕み、歪ませていく。
しかし、そんな追い詰められた状況であっても、スミダの行動はやはり擁護できない。せめて、最後にイノウエに「どこが好きか?」と問われた時、もう少し誠実な、人間味のある答えを返せていれば、二人の関係は違った結末を迎えていたかもしれない。もしかしたら、あの狂ったアソビングというチームから、2人で逃避行するという未来もあったかもしれないのだ。

まあ、スミダにはドンマイとしか言いようがない。そして、この不完全すぎる世界で、それぞれの苦悩を抱えながら生きる人々の行く末を、私たちは見守っていくしかないのだろう。
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